記憶の中の女達〜(21)サルビアの鉢植え-第43話
作家名:淫夢
文字数:約4920文字(第43話)
公開日:2021年7月23日
管理番号:k057
この作品は、過去、実際にセックスした数百人の女性の中の、記憶に残っている数十人の女性との出遭いとセックスと別れを描写。
夢中で私の勃起をしゃぶりながら、眉を顰める優依の美貌。
私の勃起を口で愛撫すると「唇でも感じて、欲しくなる」と言うようになった彼女が官能を浮かべた美貌を歪め、私の勃起を唾液塗れにして舐め、しゃぶり立てながら、堪え切れない風情で上目遣いで私に催促する。
岩場に彼女を立たせ、後ろから尻肉を割り、既に夥しく滴り溢れる愛液に塗れた膣孔を貫いて激しく抽送すると、私の手を取って乳房への愛撫を促し、引き締まった美しい尻肉を突き出して自ら前後させ、狂ったように美しい裸身を悶えさせた。
「すごいっ、良いっ」
岩場を背に、しなやかな片脚を抱えて前から貫き、キスを貪り合い、乳房を愛撫しながら抽送すると、止めど無く溢れる愛液を膝下まで滴らせ、美しい黒髪を振り乱し、しなやかな裸身を激しく悶えさせて官能に悶え狂う。
「またっ、おかしくなっちゃうよっ」
膝が崩れ落ちそうになるのを必死で堪え、エクスタシーの大波に裸身を激しく痙攣させる。
そんな妖艶な優依の痴態に激しく興奮した私も、強烈な射精感に襲われていた。
夜も、天の川が鮮やかに仰げる満天の星空の下、穏やかな波がさらう渚で激しく愛し合う。
漆黒の闇の中で優衣は大胆になり、私を仰向けにして跨がって膣粘膜に私の勃起を誘い、尻肉を上下左右前後に、速く遅く、深く浅く振り立て、自らの愉悦を飽く事なく貪る。
美しいしなやかな裸身を悶えくねらせる優依が快感に喘ぎ、黒髪を振り立てる美貌の向こうに、満天の星々が煌めいていた。
夜の海に浸かって満足した後の火照った肉体を醒ましながら、精液と愛液を流すように互いの性器を愛撫し合う。
波を揺らがせると、二人の裸身に夜光虫がまとわり着き、光り輝く。
海の中で身体が冷えるまで抱き合う。
二人だけの、夢のような永遠の時空だった。
東京に戻ってからも、東京生まれの東京育ちである優依は、大自然豊かな美しい海辺で、昼も夜も激しく愛し合った事を日々想い出して感激していた。
翌春、優依は高校を出てプレタポルテ専門店で働き始め、モデルの仕事は続けていた。
一部で少し名の売れ出した私は、バンド活動に時間を取られるようになり、アマチュアでのんびりしようと考えていた私も、人生を音楽活動に賭けようと真剣に考え始めていた。
“S”の常連Yが連れて来たHと意気投合し、“おれにロックコンサートをやらせろ”と言い、彼が“面白い!やろう”となって、彼が実行委員長をやった〇〇大学のお茶の水校舎での〇〇祭で、日本で初めて、学園祭にロックコンサートを企画導入した。
同じく、“S”のメンバーのカメラマンSが連れて来た〇〇大学の学生ISが制作した映画で音楽を担当した。
彼と彼の作品は長い間埋もれたままだったが、05‘年頃から評価されるようになり、彼の全作品がCD化された。
私が音楽を担当した作品には、勿論、私の名前とバンド名がクレジットされている。
また、有名な演劇集団〇〇〇〇〇の舞台に、短い1曲だったが、楽曲を提供したりした。
私も優依も、それまでのように、毎日逢ってセックスして、という日々を過ごす事が出来なくなったが、優依が休みの日は、前日の夜から私の部屋にやって来て泊り、週に1度ほどしか逢えない心と肉体を完全に充たし合うように、翌朝まで激しく求め合い、愛し合った。
夏を越し、秋が深まる頃から、優依が私との「結婚」を口にするようになった。
優依の幼い頃、交通事故で身体不自由になった父親が、独り娘の優依の花嫁姿を切望しているようで、また母親が苦労して父親の介護をしながら自分を育ててくれた事から、優依は一日も早くちゃんと結婚して両親を安心させてやりたいと言う。
私は優依の、そんな現実を初めて聴かされた。
優依との結婚は、私の人生の夢を膨らませるのに充分だった。
優依と結婚して、子供を設けて幸せな家庭を築き、生涯音楽活動を続ける。
しかし、“結婚”には、トラウマがあった。
そして最も困ったのは、優依が、「バンドを止めて、普通の会社に就職して欲しい」と言い出した事だった。
優依は、私のロック活動のファン第1号だと言っていたが、何時も“R/Z”で海外の一流アーティストのレコードを聴いていたせいで耳が肥えていて、私のギターもヴォーカルもメジャーにはなれないと感じていたのかも知れない。
結果的には、彼女の感覚が正解だったのかも知れないのだが。
5年程前から音楽活動を再開し、YouTubeに30曲ほど作品をアップした。再会した優依は随分気に入ってくれている。
また、優依は、モデルの専属契約ももうすぐ切れるから、人間関係が複雑で、トラブルの多いモデルの仕事も辞めると言い、両親のように、平凡で普通の家庭を築きたいと願っていたのだ。
結婚。
それは「生涯愛し合う」という、絶対的、普遍的ではあり得ない愛情という、不明で根拠のない感情に拠って互いに束縛し、束縛される事を、当事者も、また周囲の第三者も認めるシチュエーションである。
それは一生、どちらかが死ぬまで、世間体や社会的地位を考えず、財産欲や物欲も伴わず、愛情だけで持続出来るものなのだろうか?
また、生涯愛し合う事は、結婚という形式を経なくても、出来るのではないか?
歳の離れた私の姉は、大学を卒業して県庁職員になり、数年後、県下でも有名な進学高校の教師と恋愛した。
二人の勤務地の関係で、実家からは遠い(今でも3時間掛かる。当時は半日掛かりだった)処で生活する事になるだろうから、と反対した祖父、父母の意見を圧し切って結婚した。
祖父、父母は止む無く認め、祝福した。
しかし、姉の死の直後、アパートの家主さんが驚くべき事実を語った。
二児を設け、幸せな結婚生活を営んでいたはずの姉は、亭主関白で酒癖の悪かった夫が、仕事をしながら二人の子供を育てている妻の苦労を顧みず、毎晩のように飲んで深夜に帰宅して、子供と一緒に眠っていた姉を叩き起こして、「夫より先に寝るな」と暴力を揮っていた。
姉の夫は、通夜の場で、祖父、父母の前に土下座し、号泣して謝った。
彼は数年後、見合いで再婚して一児を設けたが、重度の糖尿病を患い、60歳になって心筋梗塞で逝くまで、幸せに暮らした。
当時、幼かった兄妹も、義母に育てられて順調に成長し、結婚もして子供、孫にも恵まれ、幸せに暮らしている。
姉は、反対を圧し切って結婚したせいで、実家の祖父、父母にも相談出来ず、また、高校教師と県庁職員という社会的体面を考えて離婚も出来ず、ただ耐え続け、結局ストレス性の激性胃炎を患い、5歳と3歳の幼児を遺して逝ってしまったのだ。
私は両親と、入院中の姉を見舞った。
私の眼に映ったのは、美しくふくよかだった姉が貌も躰も痩せ細り、固定された両腕にカテーテルの点滴を受け、鼻と口に管を挿入されていて、父母が話し掛けても返事すら出来ない悲惨な姿だった。
父母が姉に縋りつき、髪を撫で、貌に触れながら号泣した。
姉の姿の余りの悲惨さに怯えた私は、少し離れた処に立ちすくんでいた。
涙に翳んだその光景が、今でも脳裏に焼き付き、それが結婚に対するトラウマになった。
取り返しの付かない、余りに儚い姉の人生だった。
“S”の常連で、〇〇大学経済学部4回生のMがいた。
Mは同じゼミの女性と同棲していて、彼女が妊娠した。
後1年、無事に卒業さえすれば、日本ではエリート中のエリート、将来を約束されたようなものであった。
しかし、彼は大学に行かず、日雇い労働の日々を送っていた。
暫くして無事に出産、赤ちゃんを抱いて二人で飲みに来る。
誰が視ても本当に幸せそうだった。
彼は、大学を辞め、彼女の郷里である沖縄の離島に行き、彼女の実家の漁業と農業を継いで営む事に決めた、と誇らしく皆に宣言した。
そして“R/Z”で送別会をした際、彼が太いマジックで壁に「生きる」と豪快に書いた。
今でも、彼の誇らしげに笑う髭面と、その壁の文字が私の脳裏に焼き付いている。
何が幸せで何が不幸せなのか?
そんな事は死ぬ直前まで判らないのではないのだろうか。
幸せな人生を過ごしたつもりでも、死ぬ間際に振り返って後悔する事はないのか?
優依は、別れて40年も経った4年前、私をインターネットで探し当て、“あの時、あなたを傷付けた事を、ずっと後悔していて、あなたを探して謝りたかった”とメールをよこした。
結婚せずにずっと独身であったなら、それは不幸な人生なのか?
優依の希望通り、彼女と結婚したら?
それは不可知な事ではないか。
私は未だ21歳で、「結婚」という現実を実感として受け容れる事が出来ず、優依も18歳、余りに早過ぎるように想えた。
勿論優依を心から愛していたが、バンド活動が軌道に乗る処だったので、それで飯が喰えるようになるまで待ってくれと、繰り返すだけだった。
優依が“R/Z”に来なくなって久しくなった。
秋の学園祭シーズンに入って益々ライヴの回数が増え、優依と逢える機会がほとんどなくなっていた。
私は、それぞれ結婚について、将来について考え直す良い冷却期間だと、勝手に解釈していた。
風に冷たさを感じるようになった晩秋のある夕方、久しぶりに優依が“R/Z”にやって来て、一緒に帰る。
3か月近く優依を抱いていない。
今日は。
しかし、何時も腕を絡めて来る優依が、何故かそうしなかった。
それを訝しんでいると、新宿の雑踏の中で、優依が急に私の手を引いて立ち止まった。
振り返って視ると、優依が嗚咽を洩らしながら大粒の涙を流していた。
「ごめんね。私、結婚する事になったの。ごめんね」
私は絶句した。
「止めろ」という言葉が喉元で止まった。
優依の表情は、その言葉を期待しているようには想えなかったのだ。
本当に、別れを告げに来たという表情に想えた。
そして、優依が「ありがとう。さよなら」と言い遺して走り去った。
後を追いかけようにも、脚が動かず、あっという間に優依の姿は雑踏に消えた。
私は、あれだけ深く愛し合っていたのに、優衣の家の所在も電話番号も知らなかった事をその時初めて悟って、酷く後悔した。
それ以前に、優依を抱き締めて「結婚なんかするな」と言わなかった、言えなかった事を酷く後悔した。
優依と何とかしてもう一度逢い、「バンドを止めて、ちゃんと就職するから結婚しよう」と言おうか、とも考えた。
しかし、あの時の優依の態度と表情を、何度も想い浮かべてみる。
新宿の路上で、優依は私が引き止める事を望んでいなかった。
本当に訣別に来たのだ。
“結婚する事になった”と言った。
結婚話は決定して、進んでいるのだ。
私は様々な体験をして、「醒めてしまった心は元に戻らない」と知っていたし、ガキのくせに「人生なんて、なるようにしかならない」とも悟っていた。
ショックと後悔は、楽天的な私の心の中で、次第に薄れて行った。
年明けの3月、優依と何度か一緒に来た事のある女の子が訪ねて来た。
「優依、結婚したよ。幸せになるから、貴方も幸せになって、って言ってた」
優依に頼まれて、伝えに来たと言った。
勤めているプレタポルテのブティックを全国でチェーン展開している会社の専務と結婚したという。
経営者の息子だそうで、たまたま視察に来て、一目惚れされたそうだ。
私と競べたら、まるで天上人だ。
確かに幸せな一生を送れるかな。
心が普遍なら。
私はふと想い付いて、彼女を少しの間待たせ、向かいの花屋で、丁度蕾が膨らむ前のサルビアの鉢植えを買い、優依に渡してくれるように頼んだ。
結婚祝いなどではない。
心情的にも経済的にも出来るはずがなかった。
それは優依も解ってくれるだろう。
ただ、想い付いただけだった。
サルビアの花言葉を優依が知っていたら、或いは調べて知ってくれたら、あの初めての夜の事を想って、一生大切に育ててくれるかも知れないと想ったからだ。
サルビアの花言葉は「家族愛」「健康」などと言われるが、他にもあった。
真紅の花の色そのままに、「燃える想い」「激しい愛」。
そして、「処女の鮮血」。
私は当時好きだった、早川義夫氏が書き、ジャックスが演奏する「サルビアの花」を想っていた。
「サルビアの花」には私の想いが歌われていた。
優衣も好きな曲だった。
♪君のベッドにサルビアの紅い花しきつめて、僕は君を死ぬまで抱き締めていようと♪
♪僕の愛の方が、素敵なのに♪
(続く)
※本サイト内の全てのページの画像および文章の無断複製・無断転載・無断引用などは固くお断りします。
メインカテゴリーから選ぶ