家庭崩壊-3話
作家名:バロン椿
文字数:約3000文字(第3話)
公開日:2020年10月29日
管理番号:k063
吹き始めた夫婦間のすきま風。ふと見た夫のスマホに入っていた若い小娘からのメール。夫の不貞を知った妻は、あろうことか、自分の娘より年下のピアノ教室の教え子に手を出してしまった。そして、セックスに溺れる日々。その果てにあったのは家庭崩壊……
第四章 和子の不倫
《揺らぐ心》
娘は4月から北海道に行ってしまっている。
家庭内で会話はとうに無くなっているが、こうなってしまうと、殊更寂しくなる。
「礼子ちゃん、頑張ったわね。先週よりもずっと上手になってる。おうちで猛練習したのかな?」
「だって、先生、この間、怒るんだもん」
「ふふふ、出来るのに、練習しなかったからよ。この調子で頑張りなさい。次の発表会が楽しみよ」
「はい。先生、また練習してきます。さようなら」
寂しさを紛らわすため、和子は益々ピアノ教室に没頭していく。
窓を開け、うぅ…と伸びをし、それから、ふぅーと胸いっぱいに新鮮な空気を吸い込む。
気持ちが切り替わって、また、やる気が出てくる。
そこに、「こんにちは」と芳樹が入ってきた。
ピアノの前に座った芳樹は純粋に音楽と向き合う澄んだ目をしている。
譜面台に楽譜を置き、「よろしくお願いします」と頭を下げる。
(本当に礼儀正しいのね……)
思わず笑みがこぼれた和子が「どうぞ」と言うと、ダン、ダダダンと力強い響きに続き、規則正しいリズムで、課題曲を弾き始めた。
目を閉じると、心にまで浸みる様なメロディ、「そう、そう、いいじゃない!」と頭の中で叫びながら聞き入ってしまう。
ところどころで、小さく乱れはあるものの、全体的には悪くない。
よく練習してきている。
10本の指が広い鍵盤の上を滑らかに動き、正確に音を繋いでいく様子が目に浮かぶ。
そっと目を開けると、一心不乱に演奏している芳樹の姿があった。
(私たちも昔はああだった……)
和子は学生時代のことを思い出していた。
幼い頃からピアノ一筋に打ち込み、そのお蔭でコンテストで入賞し、「学校に残らないか?」と音大の教授から誘われたこと、そして、夫の達也と出会い、人生が変わったことを。
「映画を観に行かないか?」と初めて誘われた時の喜び、初めての口付け、そして、初めてのセックス。
処女だった和子は夫によって「女」にしてもらった。
「こ、怖い……」
震える和子を優しく抱き締め、「大丈夫、大丈夫」と何度も言って心を落ち着かせ、繰り返し愛撫し、恥ずかしいほどに濡れたところで挿入してきた。
「あ、あ、痛っ、痛い、あなた、あなた……」としがみついたが、夫のペニスが和子を貫き、結ばれた。
そんなことを思い出していると、芳樹の演奏は何も耳に入ってなかった。
「先生、どうでしたか」
演奏を終えた芳樹が声を掛けてくれた時、和子は顔が赤くなっていた。
慌てて、「あ、あ、そ、そうね。とても良かった」と返事をしたものの、実のところ何も覚えていない。
咄嗟に芳樹の隣に座り、「だけど、こうすればもっと良くなるかな」とピアノを弾き出したが、それは心の乱れが出てしまった、とても手本となるようなものではなかった。
なのに、芳樹は「あ、そうか、そうですね……」と鍵盤の上で指を動かし、真似をしている。
(いつもこんな風に慰めてくれて、なんて優しい子なの……)
和子の芳樹に対する思いは、教え子の領域を超えてきていた。
芳樹は大切な教え子であり、心の拠り所でもある。
それなのに、こんなことを考えてしまうなんて、この日の出来事は和子にとって、ある意味でショックだった。
芳樹君は恋人なの?教え子でしょう。違うわ、恋人よ……
一人ぼっちの家にいると、こんなことばかり考えてしまう。
ダメよ、正気に戻らなくちゃ、そう思い、ピアノに向かうが、「こんにちは」と彼は入ってくると、彼の気を引こうとやっきになって
「昨日のテレビ、何て名前だったかな、あのアイドル……」
こんなことを話し掛ける。
「え、誰?」
「CMによく出ている子よ」
「うーん、それだけじゃ、分からないよ」
芳樹は呆れた顔をするが、和子は、「分からなくたっていいの。そういう話ができれば……」と、心が湧きたっていた。
レッスンが始まり、芳樹がピアノに向かうと、和子は目を閉じ、一音も聞き逃すまいと集中する。
だが、ダン、ダダダン、ダン、ダン……と力強く始まるメロディーも、頭に浮かぶ、「こっちよ、芳樹君」と二人で公園を歩く映像に邪魔され、殆ど耳に入らなくなる。
演奏が終って、「どうでしたか?」と聞かれても、「あ、そ、そうね」と、彼の隣に座って、「こうじゃないかな」と弾くが、的外れなことが多く、芳樹は戸惑う。それでも、「そうか、そういうことか」と気遣ってくれるから、「そうよ、そう」と肩を揉んだり、時には、「理解が早い!」と、抱き付いたり、頬擦りすることもあった。
芳樹はおかしいとは思ったが、「先生にも悩みがあるんだろう」と考え、母親にはこのことを言わなかった。
月が替わり、6月。
鬱陶しい季節になっても、抱き付いたり、頬擦りすることはしたが、そこまで。明美の言うような「押し倒す」なんてこと、「映画じゃないんだから」と和子はもどかしい気持ちを抱えていた。
《感情の爆発》
「アパートを借りたから」
6月中旬、夫はそう言って出て行った。
裏切りが発覚した時から、こうなることは分かっていた。
だが、心の片隅では、「ごめん、やり直したい」と夫が言ってくることを期待していただけに、和子はやるせない気持ちでいっぱいだった。
翌日、その気持ちは苛立ちに変わっていた。
「恵美子ちゃんも洋子ちゃんも、お母さんに言い付けますよ!」
レッスン室に響く和子の声は外にまで聞こえていた。
「お兄ちゃん、先生、ご機嫌斜めよ」
部屋から出てきた恵美子ちゃんはケロっとしていた。
洋子ちゃんも「とっても怖いの」と頭に指で角を立て、笑っていた。
言い方は悪いが、二人は叱られ慣れている。
だが、芳樹は褒められてばかりで、殆ど叱られたことがない。
こういう雰囲気は苦手で、始めから少しビビッていた。
「こんにちは」
いつものように部屋に入ったが、和子は窓の外を眺めているだけで、振り返りもしない。
芳樹はピアノの前に座ったが、そんなピリピリした空気に影響され、酷く緊張している。
「じゃあ、始めて」と言われても、体が固まって、指が上手く動かない。
弾き始めたものの、最初から間違えてばかり、半分にもいかないところで、苛立った和子に「何をやっているのよ」と叱られてしまった。
「す、すみません」
芳樹は演奏を立て直そうと必死になったが、余計に緊張し、弾けば弾くだけ、間違えが多くなり、ついに「やめなさい!」と声を荒げた和子にバーン!と鍵盤を閉じられてしまった。
芳樹は「ごめんなさい」と謝ったが、「もう帰って」と背を向け、「こんな酷い演奏をするなら、ピアノを辞めてしまいなさい!」と取り付く島もなかった。
がっくりと肩を落とした芳樹は楽譜をカバンにしまうと、椅子から立ち上がった。
和子の方を見ると、窓から外を眺めているが、まだ怒っているようだった。
(叱られちゃったけど、今日は大事な日だから……)
芳樹は手提げ袋からブルーの包装紙に包まれ、赤いリボンをつけた箱を取り出すと、和子に近寄り、勇気を振り絞って、「今日はごめんなさい。でも、これは受け取って下さい」と差し出した。
「何よ」と和子は振り向いたが、「Happy Birthday!上野和子先生」と記されたカードが挿してあるのを見ると、みるみる顔色が変わり、受け取った箱を持つ手がブルブルと震え出した。
全て自分が悪い。
個人的な苛立ちをレッスンに持ち込み、それを芳樹たちにぶつけていた。
それなのに、文句を言わないどころか、自分でも忘れていた誕生日のプレゼントまで用意してくれていたとは……
(続く)
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