君江と光男〜故郷に咲いた儚い恋-1話
作家名:バロン椿
文字数:約2780文字(第1話)
公開日:2020年9月7日
管理番号:k056
これは今から30年程前の話です。しかし、当事者が今もご存命なことから、登場人物の名前は仮名としております。ご了解下さい。
橘君江
桜の蕾が膨らみ始めた3月、38歳になった橘(たちばな)君江(きみえ)は、20年振りに故郷、京都府京丹後市に帰ってきた。
だが、狭い町だから、「橘とこん娘、別れて帰ってきたんだって」と出戻り話は直ぐに広がる。
夫は5歳年上。高校を卒業して就職した大阪の企業の同僚で、23歳の時に結婚した。
勿論、知り合った時は優しかった。
「ほんまに優しい人ね」
職場の仲間もそう言っていた。
確かに機嫌のいい時はそうだが、一度虫の居所が悪くなると、口も聞かず、時には「うるさい!」、「出て行け!」と怒鳴ったり、頬を叩かれたことも少なくなかった。
それに、嫉妬深い。
夫は外面がよく、「あ、どうも」などと愛想よく振舞う癖に、君江が自分の知らない男と挨拶すると、「誰や、あいつは?」としつこく聞いてくる。
「いつもお世話になっている人どす」と説明しても、「いらん挨拶などしなくてええ」と、ほとほと疲れてしまう。
また、これは他人には言えないことだが、性欲がとても強く、生理の時以外は毎晩体を求められた。
君江は処女で結婚した訳ではないが、そういう人もいるのだと思っていた。
時々、社宅住まいの井戸端会議などで、「お宅はどれくらい?」と、夫婦生活の話になることがあったが、そんな時、君江は出来れば会話の輪から外れたかった。
しかし、一旦始まってしまうと抜けられない。
「恥ずかしいこと、聞かんといて」と向かいの奥さんが逃げても、「ええやん、内緒やさかい」とお隣の奥さんがせっつくと、「週に一度かな……いややわ、こないなことを聞いて」と打ち明け、「週に一度!そら、羨ましい。うちなんか、月に一度がせいぜいや。それも、上に乗って、勝手に『気持ちええ』なんて、ほんまに腹が立つ」とあっけらかんとお隣の奥さんも返している。
君江が黙っていると、向かいの奥さんが「君江さんとこはどうなん?」と振ってくる。
とても本当のことは言えないから「うちは……」と口を濁すと、「あら、赤なってる。ご主人、優しそうやさかい、きっとね?」とお隣の奥さんに目配せして、お隣の奥さんも「そうで。うちらとはちゃうわぁ」とからかう。
とてもついてはいけないが、他人の夫婦生活は自分たちのとは随分と違うものだと教えられた。
あれやこれや、不満は沢山あったが、一度は好いて一緒になった仲、「赤ちゃんでもできれば、きっと変わってくれる」と我慢していたが、なかなか恵まれず、「気にせんでええ」と言っていた夫の両親が、裏では「全く出来損ないの嫁や」と言っていたと知ると、もう堪えられない。
印鑑を押した離婚届を残して家を飛び出し、故郷に逃げ帰ってきた。
川田工芸
「光男、それを配達しておくれ」
高校2年生の川田(かわた)光男(みつお)は学校から帰ってくるなり、母親の早苗(さなえ)からそう言い付けられた。
彼の家は郷土玩具の組み立て工場「川田工芸(かわたこうげい)」を経営していた。工場と言っても一家総出の家内工業だから、光男も例外ではない。
まして、バイクの運転免許を取りたいと言って、「絶対にダメだ」と両親から反対されたものを、「配達に使うから」と、何とか説き伏せて取らせてもらったのだからなおさらだ。
制服をジャンパーとジーンズに着替えた光男に、「今日はここや」と配達ノートを手渡した母は、「それから、三丁目の大きな家の橘はん、離れに住む君江はんが内職を始めたいって。メモを書いておいたから、忘れずに寄ってね」と付け加えた。
バイクに跨がった光男は「出戻りって、この君江さんのことか」と大人たちが話していたことを思い出していた。
「気をつけるんよ」と見送る母に「行ってきます」と手を上げて応えると、光男はバイクを走らせた。
「こんにちは、川田工芸です」
「光ちゃん、待っとんたんよ」
「はい、これ」
「ありがと。早苗はんによろしくね」
「うん」
どの配達先も頭に入っているから、1時間もあれば10軒近く回れる。
残りは新しい先、橘君江の家だった。
「こんにちは」と声を掛けたが、橘家は広く、門の外からでは誰も出てこない。
光男はバイクを押して中に入り、離れの脇にそれを停めると、荷物を持って、「あの、すみません、川田工芸ですが」と玄関の引戸を開けた。
すると、ほのかに香水の匂いがして、奥から「あ、ご苦労はん。こないなところまで」と、色の白い女性がエプロンを外しながら出てきた。
髪は茶色、グリーンのセーター、フリルのスカート。
「大阪に嫁に行っていた」と聞いた通り、明らかに、ここら辺の女とは違ってあか抜けている。
そして、「これはこのように組み立てて」と母の書いたメモを見ながら説明していたが、鼻を擽る化粧の匂いや、チラチラ目に入る彼女の膝頭が気になって仕方がなかった。
(やっぱり都会の女だ……)
そんなことを考えていると、「うちに出来るかしら……」と君江が不安そうに呟いた。
光男は咄嗟に「大丈夫ですよ、婆さんでも出来るんだから」と答えたが、君江の顔を見て、「しまった!」と思ったが、後の祭。
「うちは婆さんよりダメなん?」と小首を傾げられ、「あ、いや、そ、そういうことじゃなくて……」としどろもどろ。
逆に、「ふふふ、ごめんね。冗談やさかい」と笑われてしまった。
光男が回る内職先は、殆どがこの土地を離れたことがない、農家の主婦ばかりだったから、こんな会話ができる君江はとても新鮮だった。
バイクのエンジンをかけ、後ろを振り向くと、「またね!」と玄関先で君江が手を振っていた。
帰り道、頬にあたる風がとても気持ちよかった。
楽しいお茶の時間
「ねえ、お茶でいい?」
「あ、はい」
光男が君江のところに配達に来るようになって1週間、初めて家に上げてもらった。
「散らかっているさかい」と君江はお茶を出しながら、恥かしそうに言ったが、小ぎれいに良く片付いている。
間取りは六畳と三畳の二間、台所とトイレにお風呂、一人暮らしなら十分過ぎる広さだ。
それは別として、
「お手伝い、大変ね」
「うちの仕事だから」
「勉強、大変?」
「そうでもないけど、僕は頭がよくないから」
と話が続かない。
緊張していたこともあったが、何せ君江は38、17の光男には眩しすぎる。
10分くらいだったが、楽しいよりも、息が詰まりそうだった。
しかし、毎日のように顔を合わせていると、それも解れて、「上手ですね」と内職の仕上がりを誉めることを覚え、話すネタも、「小泉今日子がいいなあ」、「うちは今井美樹がええ」と好きなアイドルのことから、「えっ、結婚するの!」など、週刊誌ネタまで広がり、気がつくと、10分が20分に、長い時は30分も上がり込んでしまうこともあった。
そんな時、「ずいぶん遅かったんやね。何をしとるん?」と帰りを待っていた母に小言を言われたが、「どこでもお茶を飲んでいけと言われ、断れない」と答えると、「そう、それならええけど」と、それ以降は何も言わなくなった。
(続く)
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