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スペシャル・フレグランス-前編



作家名:バロン椿
文字数:約3770文字(前編)
公開日:2020年8月11日
管理番号:k050


浮気の後の甘いコロンの香り。女性の皆様は匂いに敏感。「あなた、何よ、この匂いは!」
妻からの罵声に怯える、老舗化粧品会社の男たちが考えた加齢臭スプレー。さあ、ベストセラーになるか?



挿絵の官能小説画像


男とは、本当にバカなもの

「あ、ここで結構です」
「えっ、3丁目はまだ先ですが」
「いいんだ、いいんだ、ここで」

自宅までまだ距離があるのに、タクシーを停めた山田(やまだ)浩一(こういち)は、焼き鳥屋に入った。
特に一杯飲みたい訳ではない。

ほんの30分程前まで、愛人とベッドの上で、組んず解れつ、セックスに励んでいたので、その名残を消したいだけだ。

実は先日、今夜と同じような状況で帰宅した時、妻から「あなた、最近、クロエの匂いがするけど」と言われ、肝を冷やしたばかりだった。


「えっ、そ、そうかな……」
「女でもいるのかしら?」

「ば、バカなことを言うな。そんな暇がある訳ないだろう」
努めて冷静に言ったつもりだったが、声は裏返っていた。


山田は小さいが老舗の化粧品会社「フレグランス・ヤマダ」の二代目社長。
妻は、「ディオールなんか使いたいけど、あなたを困らせたくないから」と、「フレグランス・ヤマダ」製品を使ってくれている。

それなのに、山田の体からクロエの香りが漂ってくれば、疑うのは当然だ。

「あら、そうですか」と、それで終わったが、いつもなら「お疲れ様でした」と、お茶を煎れてくれる妻が、「先に休みますから」とつれなかった。

だから、今夜も同じ匂いを持って帰ったら、そんなことでは終わらない。

「へい、いらっしゃい」
店主が威勢のいい声で迎えてくれた。

午後11時を過ぎ、店内は疎らだが、山田はわざわざ、鳥を焼く煙りの漂う、店の隅っこのカウンター席に腰を下ろした。

「お客さん、後ろのテーブル席が空いてますが」
「ああ、いいんだ。俺、このタレの焦げる臭いが好きなんだ」

何もそんなことまでしなくても、浮気さえしなければいいのに、女性の皆様はそう思われますが、男って奴は本当にバカなんですよ。

まあ、今夜は時間つぶしに、このお話を聞いて下さい。

試作品

「社長、試作品ですが」

もう直ぐ午後6時。
帰り支度をしていた山田のところに、最古参の調香師、「厳さん」こと、小島(こじま)厳一(げんいち)が小瓶を持って現れた。

昨日の商品開発会議では厳さんのグループからは何もアイデアが無かったが、顔を見ると、自信に満ちたというより、意味ありげな笑いを浮かべている。

「隠し玉?」
「へへへ」

「原料は?バラ、いやいや、そんな当たり前のものじゃない……沈丁花かな?」

取引先との宴席は午後7時から。
時間があまり無い山田は答えを聞きたいが、厳さんはそれには答えず、「とにかく嗅いで下さい」とニヤニヤしている。

ちょっとイラついたが、厳さんは山田の父親の代から支えてくれている調香師で、また、色々な悪戯も教えてくれた、言わば、「人生の師」である。邪険にはできない。

「分かりました」と小瓶に鼻を近づけると、古くなった整髪料が染み込んだような変な臭い。

「うわっ……止めて下さいよ、全く」
山田は一瞬にして顔が歪んだが、「へへへ、凄いでしょう」と厳さんは得意満面の笑顔だった。

悪戯をするにしても、時と場合がある。
いくら厳さんでも、腹が立つ。

「何ですか、これは?」と不愉快さを顕にしたが、厳さんは意に介さず、「加齢臭ですよ」と笑い、ポケットからキャラメルを取り出すと、それを口に放り込み、「血は争えませんな」と妙なことを言い出した。

確かに父親には女がいた。
「あなた、私が知らないとでも思っているんですか!」と母親がヒステリックに叫んでいたことを思い出す。


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しかし、自分が女を囲っているのは、運転手の伊藤しか知らない筈だが……

山田がぶつくさ呟いていると、ニャッと笑った厳さんは「伊藤ちゃんを叱っちゃ駄目だよ」と言って背中をポンポンと叩いて、「疲れた時は甘いものがいい」とキャラメルを勧めてきた。

文句を言うタイミングを失った。参った。

山田は、「それじゃあ、一つ」とキャラメルを一粒、口に入れ、「旨いですなあ」と厳さんに調子を合わせたつもりだが、彼は何枚も上手。

「化粧品会社が臭いものを作るなんて、普通は考えませんから、誰も気が付きません。まあ、『スペシャル・フレグランス』とでも名付けましょうか、あははは」と腹を抱えて笑う。


(敵わないなあ、厳さんには……)

苦笑いを浮かべた山田はわざとらしく「効くかな?」と小瓶を摘まんだが、彼は「試したから大丈夫」と指でVサインを作りながら、社長室から出て行った。


静かになった社長室。

山田は「ああ、伊藤さん? うん、そう、神楽坂。じゃあ、5分後に」と電話を置いたが、ふと先月の定例会のことを思い出した。

「以上です。本日はご多用中のところ、定例会にご出席賜りどうもありがとうございました」

業界団体の月例会は特に面白い話題がある訳ではない。
難しい事は部長レベルで議論され、社長会はそれを承認するだけで、直ぐに懇親会に移る。

「先週、タイ、ベトナムと工場視察に行ってきました」
「ほう、工場視察ね。ご熱心な事。で、成果は?」

「まあ、いつもながら手厳しいですな。ははは。いやいや、勿論、成果はありましたよ。連日、終夜で面談してきましたからね」
「えっ、連夜ですか。お元気ですな」

こんな具合に、話題は女のことばかり。
社長会の品位が疑われるが、これが実態である。

取り敢えず、会長にプレゼントするか……そのためにも、今夜は明美で実験だ……そう思った山田は足取り軽く、社長室を後にした。

完全犯罪

神楽坂からそれほど遠くない新宿区曙橋のとあるマンション。

「あっ、いや……こ、浩ちゃん、す、凄い……」
「明美、まだ、まだだぞ……」

「ど、どうしたのよ……あ、あああ、いや、いや、い、逝っちゃう……」

明美は身を捩り、外に漏れてしまうのではないかと心配するほどの大きな声で喘ぐが、山田は構わずに、パン、パンと音を立てて腰を打ち込む。

「あ、あ、あああ、いや、い、逝っちゃ……」

シーツには飛び散る山田の汗と、明美の股間から滴り落ちる愛液が大きな染みを作っている。

そして、明美の体が反り返り、「あ、あ、あ、あ、ああああ……」と絶頂を迎えると、その腰を抱えた山田も「あっ、あ、う、う、う、うぅぅ……あっ!あっ!あっ!」と昇りつめた。

事後の火照った体にはエアコンの風は心地よい。

「はあ、はあ、はあ……浩ちゃん、今夜は凄い……」と明美が甘えれば、「はあ、はあ、はあ、あ、明美がきれいだからだよ……」と山田が持ち上げる。

ここまでは、いつものことだが、シャワーを浴びた山田はそそくさと帰り支度を始めた。

「何、もう帰っちゃうの? まだ一回しかしてないのよ」
「いや、明日は早いから、今日はこれで帰る。明美ちゃん、怒らないでよ」

山田の頭の中は「スペシャル・フレグランス」の効果検証だけ。
「ねえ、待ってよ」とすがる明美の声は耳に入らない。

上着を羽織ると、振り返りもせず、玄関のドアを開けた。

マンションを出ると、生温かい夜風が体を包む。
このままでは汗と一緒に体に染みついたクロエの香りが出てしまう。

ニヤッと笑った山田はカバンから瓶を取り出し、シューと一吹き。
そこに黒塗りの車が音も立てずに近づいてきた。


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「社長、お待ちしてました」
「えっ、あ、伊藤ちゃん」

当然のことながら、会社の車は公務でしか使わない。
このマンションに通う時はタクシーだが、なぜか運転手の伊藤が「いや、ちょっと、ここに来る予感がしたんで」と迎えに来ている。

(さてはこいつ、厳さんにチクっただけでなく、一枚噛んでいるな……)

そうなら仕方がない。

「伊藤ちゃんはもう使っているの?」と聞くと、「はい、先月から、私と開発部の高橋さんがモニターになって開発したんですよ。今月から営業の吉野さんも加わっています」と彼もジャケットのポケットから小瓶を取り出した。

俺だけの秘密兵器と思った俺がバカか……「なんだよ、みんな仲間か」と不貞腐れたように後部座席にカバンを投げ込み、ドサッと乗り込んだが、彼は縮こまるどころか、「効きますよ、これ。女房は絶対に気付かない完全犯罪の成立、間違いなし!」と、勢いよくアクセルを踏み込んだ。

(この野郎、うまいこと言うな……)
一本取られた山田がニヤッと笑うと、バックミラーで見ていた伊藤も笑う。後は試すだけ。

そして、いよいよ、車は自宅前に。

山田が「ありがとう」と降りると、「奥様の反応が楽しみですね」と伊藤もVサインを作りながら車を発進させていった。

(まあ、大丈夫でしょう、伊藤ちゃんもああ言うんだから。うん、大丈夫でしょう)

しかし、そうは言っても玄関のドアを開ける時、「もしバレたら……」と、ドキドキしていたが、迎えに出た娘は「パ、お帰りパパ……え、何に、この変な臭い、おやじ臭い……」と一瞬にして鼻を摘まむと、自分の部屋に飛んで帰った。

続いて出てきた妻も「な、何? あなた、変よ、臭い」と顔を背け、「50歳にならないうちから加齢臭なんて止めてよ。まだ、銀座の香水の方がいいわよ」と、ありがたいお言葉。

(バ、バレていない……)
小踊りしたい気分だが、それを顔に表してはいけない。

もったいをつけて、「えっ、変な臭いがするかな。加齢臭、いや、俺はまだそんな年じゃないぞ。しかし、臭いかな? まあ、風呂で洗い流すか」と言えば、「さっさとお風呂にはいってよ」と着替えを用意する始末。

山田の顔はピエロでも、心の中では「厳さん、ありがとう。スペシャル・フレグランス、最高だよ!」と笑いが抑えられない。




(続く)





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