浜辺の君と-前編
作家名:ステファニー
文字数:約4020文字(前編)
公開日:2020年8月1日
管理番号:k047
大手出版社の看板漫画雑誌『週刊少年ジャンボ』の敏腕編集者井崎と、同じ会社に勤めるキャリアウーマンで恋愛に疎い麻宮美香のラブストーリー。
東京駅に直結した高級外資系ホテルの最上階から見下ろす都心の夜景は美しい。
最高級品質を誇る一流ホテルの星付きレストランの内装はきらびやかだ。
聴こえてくる生演奏のピアノも音色が綺麗だ。
だが周囲に輝くすべてのものを見ても井崎淳也の心を魅了することはなかった。
井崎を虜にしているのはただ一人、目の前に座っている麻宮美香のみなのだ。
「こんなに素敵なお店でお食事なんて、本当にいいんですか?私、そんなに大したことしてないのに」
大きな瞳を見開いて美香は井崎に問いかけた。
「とんでもないですよ、麻宮さん。麻宮さんのおかげで素晴らしい特集が組めたって編集長もご満悦なんですから」
「そうなんですか。お役に立てたなら嬉しいです」
実際にはこのディナーは編集部持ちのお礼などではない。
それは美香をこの場に誘い出すための口実だ。
すべては井崎がこの後に成し遂げることのための芝居なのだ。
八月。
灼けるような熱い日のことだった。
燃える太陽の下、その瞬間は突然訪れた。
井崎が勤める大手出版社雄英社は少子化対策の一環として社内の未婚者を集め、お盆の最中に湘南海岸で大規模合コンを開催したのだ。
あまり参加に乗り気ではなかった井崎だったが、所属する部署内では三十代唯一の独身とあって、行くのは当然でしょうという空気を作られてしまった。
井崎はその甘いルックスのため幼い頃からずっとプレイボーイだった。
殊に大学時代は非常にモテた。
彼女が切れたことはなかったし、複数人と同時に付き合っている状態もよくあった。
社会人になってからも同じことを続けていたのだが、二十代後半に差し掛かった途端、一人、二人と井崎の下を去っていく女性が増えていき、いつの間にか誰ともご縁がなくなっていた。
どうやら遊び人とみなされ、結婚を見据えた女性たちから見放されたようだった。
焦った時にはもう遅かった。
同級生は次から次へと結婚していく中、井崎は独り身のまま三十路を迎えた。
三十代に入ってからは出会いも格段に減った。
見知った女性は皆結婚してしまったのと、昔の友人たちと疎遠になり出した時期が重なったからだ。
さすがに母親からも催促され始め、どうしたらいいものか困った矢先の合コン話だった。
職場では自虐的なネタになりつつあっただけに、参加しないわけにもいかず、期待はせずに湘南へと足を運んだ。
その期待は大きく外れるとは知らずに。
大きな会社のため、同僚といえどほぼ知らない。
特に井崎は社内で最も多忙を極める『週刊少年ジャンボ』所属だ。
毎日、アニメや映画関係者との打ち合わせが入っており、ほぼ外回りをしている。
加えて作家とのやり取りは夜間の場合が多く、一般の部署とは逆転したような勤務体系なのだ。
そのため、フロアが違えば、一度もお目にかかったことがない人も多々いる。
灼熱の砂浜を横目に、井崎は水着姿の女性社員たちを眺めた。
自分よりずっと若い娘かすでに諦めも入った同年代、もしくはおふざけで来ているような年配者もいる。
全体として言えるのは、会社柄ファッション関係に携わる女性が多いため、みなけばけばしい。
若い頃と違って遊んでいる暇のない井崎は、彼女たちに声をかけることは躊躇われた。
結局、庇のある休憩所で大学時代の同級生で雄英社国際部所属の雪本と世間話に興じていたその時だった。
井崎の眼に衝撃が走った。
真夏の光線を一身に集めて歩く彼女に出逢ったのだ。
長い髪を緩く後ろに縛り、前髪をかきあげた彼女に井崎は釘付けになった。
鈍色の水面に透き通る白肌が眩しかった。
紅いグラデーションビキニからは美しくくびれた肢体が見てとれた。
さらに浜風に煽られてはためくパレオの下にはこの上ない美脚が潜んでいた。
「すげぇ美人。誰だ、あれ?」
井崎は無意識のうちにそう呟いていた。
「うちの部署の麻宮さん」
井崎と一緒のテーブルにいた他のメンバーは皆、彼女を知っていた。
「手、出すのか?」
雪本は立ち上がった井崎を見上げて問いかけた。
「もちろん」
井崎と国際部の面々が集っていた休憩所とは別の詰所に彼女は入って行った。
井崎はすかさずその後を追った。
「お待たせしちゃってごめんね」
麻宮美香はすでに着替えて日除け小屋に入っていた友人の山川陽子に声をかけた。
「いいえ、千葉からわざわざご苦労さまです」
中には陽子の他に二人の女性がいた。
「こんにちは。国際部所属の麻宮美香です」
美香は元気よく挨拶したが、二人はともに小さくどうも、と返してくるに留まった。
「こちらうちのファッション誌所属の編集部員です。よろしくね」
代わりに陽子が紹介してくれたが、それでも二人は苦笑いしているのみだった。
「美香ちゃん、今日の水着は今季のトレンドだね」
陽子は美香のビキニを指差した。バストトップを中心に紅が外側へ向けて薄まっていくデザインだ。
「そうなんですね。陽子さんも素敵なサマードレスですよ」
「そう?体型隠すためだったりして」
そう言って陽子は笑った。
他の二人も愛想がてらに笑い声を立てたが、目は笑っていなかった。
「ちょっと失礼してもよろしいですか?」
突如、背後から男の声がし、陽子が振り返って対応した。
「あっ、どうぞ」
太めでおかっぱ頭の女性が井崎にどうぞと声をかけてきた。
見た感じ三十代半ばに入りかけた頃といったところか。
その女性を無視し、井崎は赤ビキニの彼女に視線を投げかけた。
「こんにちは。隣、いいかな?」
彼女は不思議そうな目で井崎を見た。
特に反応は返って来なかったが、井崎は彼女の隣に陣取った。
詰所には他にも女性が二人いたが、彼女たちは井崎を見るなりそそくさと外へ出て行った。
太めの女性だけがその場に居座ったが、井崎は暗に消えて欲しいと目で訴えた。
「美香ちゃん、私、お腹空いちゃったの。なんか買ってくるから」
さすがに空気を読んだのか、おかっぱ頭はその太い体躯を動かし、席を立った。
お目当ての彼女はどぎまぎしたような表情でおかっぱ頭を目で追った。
「『週刊少年ジャンボ』所属の井崎です。よろしくね」
行ってしまった友人の名残を断つように井崎は彼女に話しかけた。
「国際部の麻宮です。よろしくお願いします」
美香は少し頬を赤らめた。
そして目線を下げた。
下がった目線に合わせて井崎は話をつないだ。
「麻宮さんね。麻宮さんは国際部でどんなことしてるの?」
「報道ジャーナリストとして世界を取材して回ってます」
美香は明らかに緊張していた。
身に付けた大胆な水着とは裏腹に、かなり奥手のようだ。
「へえ、すごいね。英語が得意なの?」
「まあ、そんなところです」
井崎は美香の左隣に座り、美香の目を見ているふりをして、美香のボディラインをなぞっていた。
赤いブラの下には二つの丘とその谷間。
左右に揺れる乳房。
腰にかけたパレオの下から垣間見える細いウエスト。
完璧だった。
なかなかそういない上物だ。
絶対にこの女を手に入れる。
井崎はそう誓った。
今すぐにでも腰に手を回し、唇を奪ってしまいたい衝動にかられたが、さすがにそれはまずい。
逃したくない獲物だ。
ここは慎重に進めるべきだろう。
「浜辺、散歩しない?」
井崎は美香を外へ誘った。
美香は微笑んで頷いた。
サンサンと太陽の光が降り注ぐ中、井崎は美香と二人、並んで浜辺を歩いた。
美香は時折、髪を掻き上げながら、少し恥ずかしそうに井崎の隣に寄り添った。
その姿が井崎には初々しかった。
「湘南はよく来る?」
浜風が美香のパレオを仰ぎ、美しい太腿が露わになった。
「いえ、あまり。遠いもので」
「そうなんだ。遠いってどの辺?」
「千葉です」
「そっか。千葉にも海あるもんね」
焼け付くような太陽に照らされる美香の透き通った白肌が眩しい。
細い腕、長い脚、くびれたウエスト、丸みを帯びたバスト。綺麗だ。
「俺は横浜出身なんでこの辺りはよく来てたんだ」
「そうなんですか」
美香はまだ緊張しているのか、ぎこちない。井崎はその距離を縮めたかった。
「あそこの売店、ソフトクリームが美味しいんだ。食べない?」
「はい、是非」
美香の表情が和らいだ。
売店でバニラソフトを買った。
美香は井崎が奢ったことに恐縮した。
それもなんだか新鮮だった。
売店の脇にあるベンチに二人は並んで腰掛けた。
井崎は美香がソフトクリームを食べるのを観察した。
真っ赤な舌で真っ白なクリームを舐める。
その力は強いのだろうか、弱いのだろうか。
その舌で自分の急所を噛んで欲しい。
涼やかな薄ピンクの口紅でほんのりクリームが染まった。
自分の肌にも同じ染みをつけたい。
「来週はお休み取ってるの?」
ソフトクリームに向いて下がっていた美香の長い睫毛が上を向いた。
「いえ、出張なんです。アメリカに」
「えっ?お盆なのに?」
「はい。ニューヨークで音楽の受賞式があるので」
井崎は力なく、そうなんだ、と返した。
聞けば、美香の担当は洋楽の情報を集めることだという。
そのため、米英の音楽祭が開かれる度に現地へ赴いているのだそうだ。
一度渡航すると一ヶ月近く帰国しない場合もあるのだと美香は言った。
美香に近づくためにはどうしたらいいものか。
井崎は考えた。
ちょうどその頃、編集部内で当番制となっている短期企画の担当が井崎に回ってきた。
『少年ジャンボ』では半年から一年単位の期間限定で巻頭特集記事を組んでいる。
今季の企画は雄英社内のお仕事紹介で、社内他誌を取材し、記事にしている。
井崎はここに目をつけた。
国際部を取り上げ、美香に密着しようと企てた。
企画書はすんなりと通り、国際部からも快諾を得た。
晴れて井崎は美香の取材をすることとなった。
秋の音楽祭が詰まっている時期のため、取材は美香が在社するたった一週間で行われた。
出社してから仕事をこなし、休憩を取り、仕事を切り上げ退社するまでの様子を井崎は観察した。
その様子が記事になり、雑誌が発行されたのが、年明け1月のことだ。
美人記者だけあり、読者からの評判は良く、編集長からもお褒めをいただけた。
そのお礼と称して、井崎は美香を今宵の晩餐へと誘い出したのだ。
(続く)
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